昭和オヤジが視聴するおそ松さん

今のところ、個人用「おそ松さん」情報リンク集+α

最終話への期待

僕はたいがい感受性も摩滅しているし、思い入れの濃さではまったくファンの皆さんには及ばないし、何よりオッサンである。実松さんとあんまり変わらないわたくしである。
なので、あの阿鼻叫喚の24話を観終わっても、どんよりした気持ちにはなったものの、日々のご飯は美味いし、日々の些事にかまけていれば気も紛れるし、それなりに過ごしてはいました。
ただ、折りに触れ溜息をついてはいた。
「ああ……重いなあ…」
「最後どうやってシメるんだろ」
「23話で寓話的にディストピアからの脱出で…それを受けて今回…殺しにきた…」
などなど。
もっとも十代や二十代の娘さんでもないので「つらい」と公言するわけでもない。
若い娘の悲嘆は痛ましいが、しょぼくれたオッサンはみっともないだけである。
よって自制していた。
そもそもいいオッサンがおそ松さんを一喜一憂しながら観続ける行為というのは、なかなかに後ろめたいものだしね。
Twitterまとめサイトを読んでいるとクラクラする。
「こんなのランジェリーショップに投げ込まれた男と同じくらいの比率じゃねえのか俺の居る場所って」
「アウェイ感半端無え…」
「なんか大半がいいとこ20代?までの娘さん?腐女子というんですか?ネットだからいいようなものの、俺がここに居るの相当恥ずかしいぞ。でも情報追い続けるけど」
みたいな。
で出費といえばHuluで後追い視聴、ニコニコの後追い配信を順当に消化していた程度である。経済効果にほとんど貢献していませんねわたくし。
が、まあそれはともかくとして。

Twitterをさらっと巡回していると、最終話予想も色々と出揃い、考察は爛熟している。
そしてあと1時間少々で放映。秒読み開始である。
どんなふうにドラマは収束するのか。

かつてフリッパーズ・ギターは自作について
「どんな深読みをされても、それくらいこちらはとっくに考えている」と言い放った。
※僕は↑こんな調子で引き出しのことごとくが20世紀な感じですが許されたし

監督藤田陽一氏もそれくらいの自負は当然あるに違いない。
何よりも、これまで全ての予想を凌駕した各話の質からして、工夫のない安易なオチにはしないと思うのだ。
夢オチ、六つ子全員帰還ですべてが元鞘オチ、全員自立オチ…いずれも違うであろう。

24話の演出からすると、あり得るifとして、
赤塚不二夫先生まさかの降臨。遺影から抜け出してきて内省に沈むおそ松を諭す
・その変形として、おそ松の内面世界に赤塚キャラ勢揃い、そして「2001年」のドラッギーなラスト20分のようなサイケデリック映像があとからあとから流れる
・臨終の床の赤塚先生(植物状態)の観るヴィジョンがいつしかおそ松とリンク
・どこかで1話白黒映像が流れる
・六つ子は「おそ松さん世界(=昭和90年)」を抜けだして、リアルな現在へ越境する。
 そしてこの世界で「えーっ僕達がアニメ化?」と新しいシリーズが始まってEND
等、つらつらと考えたが、しかしこんなしょうもない妄想はあと1時間少々であっさり覆されるのだろうな。

あと、考えが纏まらないので断片だけ言うと、「ニート-自立」という二項対立よりさらに高次の価値観を迫る記述が多分どこかで出てくる。

また、世界の枠組として
小-----大
六つ子<松野家<おそ松「さん」世界<赤塚世界<現実<???
みたいなアップからロングへ目まぐるしい視点移動という演出も多分入る。

教養小説の王道とも言える「成長物語」と一話完結ギャグ「永遠のループ」の相容れない構造の超越という離れ業を切に期待する。今の日本で最も成功したコンテンツをここで完結させるのは商売としておいしくない、という尤もな計算と、ストーリー自体が希求する「青春の終わり」をどう超克してくれるのか。きっとやってくれる。やってくれるはず。